終戦直後、国民の気持ちが上を向いていこうという努力なくしては成り立たない時代でした。昭和20年8月25日、初代・青山善太郎(当時32歳)は青山看板店を開業。戦後のつらい時代を自らの筆に託す決意をしました。当初は看板の仕事だけでは食べていけず、自転車のスポークを塗ったり、ペンキ屋のまねごとをしてみたりといろいろとやっていたらしいです。その後、青山塗装と名称を改め、集まってきた仲間たちと共にペンキ屋稼業へと没頭していったわけです。


そして2代目・青山滋も家業を継ぐようになり、昭和40年7月28日、有限会社青山塗装工業と名称を変更、高度経済成長を支える屋台骨になるべくして旗を揚げたのでした(ちょっと大げさかも)。しかし昭和45年、初代・善太郎の身体は癌に侵され、介護の甲斐なく死去。享年57歳。その後2代目・滋(当時29歳)が代表取締役となり建築塗装の他、鋼橋塗装、先代の分野でもあった広告看板業などを生業としていったのです。


そんななかの昭和46年、3代目・青山健太郎が産声をあげました。父・滋は一様に「おまえは将来、自分の好きな事をしろ。ペンキ屋にはならなくていい。」と言い続けました。僕もペンキ屋になろうとは思ってもいませんでした。ただ、幼稚園の頃の“大きくなったらなりたいもの”の欄にしっかりと「ペンキ屋さん」と書き残してあったのは別として・・・。高校生の時アルバイトとしてペンキ屋を手伝った以外は本当に塗装とは無縁な生活をおくっていました。僕が大学生の頃、一人暮らしのアパートに珍しく父から電話が掛かってきました。電話の先の父は少し酔っていたみたいで「うちの会社、株式会社になったぞ。青山塗装株式会社だ。」と、なんだかうれしそうでしたね。そんなこんなで平成4年、青山塗装株式会社と組織変更。それとともに公共工事も受注できるようになっていきました。その頃の僕はというと、いまだペンキ屋になるつもりがなく、宅配のアルバイト等をしながら社会に流されまくってました。そして転機がおとずれます。先輩に紹介してもらい入った会社(アルバイトとして)が、埼玉県にあるS吹付工業なるペンキ屋でした。僕としてはウエキ(植木)屋がいいと言ったのですが、先輩が何を思ったのかペンキ屋の話を持ってきたのです。せっかくの先輩の紹介でしたので、僕はお世話になることになりました。ペンキ屋の倅の哀しい性ともいえますが、ペンキ屋の専門用語を聞いた事がある、以前にアルバイトで塗装に携わった事がある等、職人の方々にも素性をいち早く見抜かれました。父もこの話にはとても興味を示しました。そして群馬に戻るのと、結婚を機に僕もペンキ屋稼業に足を踏み入れることになったのです。後継者ができたことを一番父が喜んだような気がしました。会社も順風かと思われましたが、足元から音を立てて崩れ落ちる日本経済がそこにはあったのです。バブルの崩壊です。この頃から将来の展望として下請けから元請へ、新築から塗替えへと2代目・滋が考え始めていたので、なんとかなるだろうと思っていました。がむしゃらにペンキを塗っていた頃から管理者へと僕も変わりました。しかしこの不況はいつまでも続きます。いろいろとみんなで考えながら、また昔のように町のペンキ屋としてやっていこうという話をしました。そんな矢先の平成15年、2代目・滋、急性心筋梗塞のため死去。享年61歳。


そして3代目・健太郎(当時31歳)が代表取締役に就任。2代目・滋が残してくれた会社の基盤と腕の確かな職人たちを財産に、塗装業という業界の将来を考えつつ、現在に至っているわけです。